f/q交換日記(2026年7月)
小沼理さん、瀬戸マサキさん、水上文さんとの交換日記「f/q交換日記」第十回です。
第1回 水上文さん
第2回 小沼理さん
第3回 近藤銀河
第4回 瀬戸マサキさん
第5回 水上文さん
第6回 小沼理さん
第7回 近藤銀河
第8回 瀬戸マサキさん
第9回 水上文さん
第10回 小沼理さん
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こんにちは、近藤銀河です。
六月のプライドマンス――ストーンウォールインの反乱から五十七年――も終わり、暑さが厳しさを増してくる七月になりましたね。私は土曜日に東京プライドを覗いて、その後クィアフレンドリーMagic: the Gathering部の友達(そういう部を私がやってるんです)と会ってカードゲームに興じたりしていました。Magic: the Gathering(カードゲームです)は海外ではプライドイベントが公式に開催され特別なプライドをテーマにしたカードが配布されるのですが、日本ではなにもない……ことに忸怩たる思いがあるのですが、それはさておき楽しいプライドの日でした。
小沼さんの書いておられたパレードに対する複雑な想い、とても良くわかります。そこではプライドを通してたちの社会の今を突きつけられるのですよね。上で書いたMagic: the Gatheringのプライドイベントのことのように。
「まだ社会にLGBTQ+の存在が十分に浸透していない状況では、どんなに耳ざわりよくコーティングしても異議申し立て、ノイズになる。」と書かれていましたが、まさに、「存在が十分に浸透していない状況」を直視するのが今の日本のプライド月間である気がします。特に今はネットを通して海外の情報が入ってくるし、日本の社会とことなる浸透した社会のこともよく見えてしまう。東京のような土地ではクィアを全面に出したイベントも多い。
けれどそれはごく一部の社会のことでしかなく、日本全体で見ればそうではない。私は東京プライドをその誤解を改めて感じる場のようにも思っています。
また今でもプライドに来て初めて自分が包摂されていることを感じる人の話を聞くことがあります。そういう人にとって大企業が中心のお祭り的な空間はまた違う意味を持つのかもしれません。日本のクィアはそうした意味であまりにも多くのレイヤーを持っている、と感じます。すごくクィアが浸透した社会の話もあれば、全くその存在がないことになっている社会の話もある。そして個人のクィアもそうしたたくさんのレイヤーを移動しながら生きている。その中でそれらすべてのプライドをどう抱え込めるのか。とても大きな問題だと思います。
とはいえ、東京プライドでも小さな運動団体のブースはたくさんあり、東京プライドへの賛否が語られるときにこうしたブースの数々が軽視されることには問題があると思っています。それは東京プライドがそうした団体のブースへの導線をうまく作れていないことの問題でもありますし、参加者がうまくそれを見つけられないことの問題でもあると思います。そうしたブースはどうしても大企業に比べて存在感を出しにくく、その上でなにかこうしたブースの存在感を出す施策ができればいいのに、と思う今年のプライドでした。それもまたたくさんのレイヤーをどう一つの空間に埋め込むか、という話でしょう。
そして七月は障がい者プライド月間でもあり、相模原障がい者施設殺傷事件から一〇年が経つ月でもあります。もっともこちらはアメリカ障がい者法が一九九〇年七月に制定されたことに由来するそうで、日本での出来事は特に関係がないものです。六月も七月も自分の「当事者性」――車椅子ユーザーでありセクシュアルマイノリティである――を強く揺すぶられる月です。
と、ここで私が「障がい者」と表記していることにお気づきになった方もいるかもしれません。障害者の表記には色々な議論がありますが、近年、障害とは社会にある障害を指すので障害者で良いのではないか、という議論もよく聞きます。確かに障害=社会にあるものとしてのDisabilityと捉えれば、英語のPerson with a disabilityと障害者はそのまま重なるものです。こうした障害を社会にあると見る考え方を障害の社会モデルといいますが、私はかなり社会モデルに懐疑的です。社会モデルというか俗流化した社会モデル、と呼びべきでしょうか?
社会モデルは障害の原因となるImpairmentとそれによって生じる社会の中にあるDisability(障害)を分けます。たとえば「足がないから車椅子を使う」がImpairmentであり、「車椅子のせいで階段しかない場所に行けない」がDisability(障害)というわけです。
でもこの二つは本当に分けられるのでしょうか? 社会モデルはフェミニズムからこうした批判を受けてきました。
特に私の場合は病気による苦痛が常にあり、前者を切り捨てる社会モデルは受け入れがたいものがあります。社会の中に障害がある、というのは大事な考えで日々痛感するのですが、しかし社会にだけ障害があるわけでもない。
単なるDisability(障害)にだけ自分の障害を還元したくない。そういう意味で障がいという表記を使うことが私はあります。とはいえこれはあくまでも自分の基準であり、こうした説明をする余裕がないときは障害とすることもあったりして、みんなでこうしよう、という気持ちは特にありません(『フェミニスト、ゲームやってる』でもこの話はしていましたね)。
こうしたことを色々考えるキッカケが飛び込んできがちなのは六月のプライドと同じかもしれないですね。
そして政治ですね。国旗損壊罪、個人情報保護、どんどんと権力の権限が強化されていき危機感が増し続ける日々です。アメリカ、イスラエルのイラン攻撃も終わらず、今なにをすべきなのか? と考え込むことが多いです。残された時間が――それがどのような時間であれ――短いのではないか、という焦燥感。その中で考えはまとまらず結局いつもの暮らしを続けてしまうのですが。
個人的に危機感を今感じるのは議論の土台が崩れていることです。というか議論の前提の共有を政府が阻んでいる感覚、でしょうか。イランのこともそうです。私が考えたいのはイランでイラン政府にもアメリカ政府にも殺される人々のことです。でもそうしたことはアメリカ政府の攻撃(その人々を口実にした)と日本政府のそれへの追従により語りにくくされてしまう。つながれない。あるいは、ホルムズ海峡のこともそうです。本来もっと繊細な議論が必要なはずなのにその遥か前の段階で語るべきことが打ち切られてしまう。そうした政府と対話することは困難で、デモを含め対話している間に細かい議題は消えていく。あまりに全てが危機的だから。
私は病気のこともあり、速い人間ではありません。遅いことが大事だとも思うけど、考えているうちに全てが変わっていく。速度についていけない。恐ろしい。
と、そんな七月ですが……実際のところ私は完全に虚無になっていました。というのもいったん博論が出来上がったんですよね。タイトルは『世紀転換期西洋美術に女性同性愛表象と、現代美術における女性同性愛表象 サフィック・アナクロニズムの観点から』。
世紀転換期(19世紀末から20世紀初頭を指す言葉です)の西洋美術の中の女性同性愛表象を、現代のそれと比較しながら、西洋美術の中の女性同性愛表象をどのように異性愛規範に抵抗したかという観点から分析、分類していく論文で、従来個別に語られてきた西洋美術の中の女性同性愛表の全体像を示そうとするものです(出版のお声がけはお気楽にください)。
一旦全部かきあげて……疲れました。心底疲れた。なにせこのプロジェクト、卒論のときからやってるので本当に長い。それを心残りはたくさんあるし乱暴だけど出し切って、なんか虚脱です。今年はずっとこれをやっていました。去年末に緊急入院手術をして1-2月に回復のために力を吸われてほとんど何もできなかったときはどうなるかと思いましたけど、なんとか形になってよかった。
博論の詳細に関してまたちゃんとなにか個別に記事を書きたいんですが、今は虚無を味わっています。ずっと頭の中に何年もあった重いタスクが消えて、すっかりふわふわしており、この数ヶ月集中的に書き続けた期間に失った対人コミュニケーション能力も相まってテンションがおかしくなっています。
とはいえ読んでもらった方々からのフィードバックなどを書き加えないといけないですし、博士制作、博士展示もあって制作に邁進しなきゃですし、さらにそれらからのフィードバックも書き加えなければなので、全然まだまだなのですが。
ひとまずはじっくり休暇を取りたいです。ではでは。

