これは評論であり断片であり感情であり食材であり構築物だ。
SFとはいったい何なのか?誰のものか?なんてことは語れないけど、私がSF読者であることだけは間違いない。つまり私が話したいのはジャンルの区分けというSFをめぐるいつもの話ではなく、内部にあるものが外部に切り分けられるという構造──クィア批評ではおなじみの──についての話だ。
非常に憂鬱になってこの文章を叩いている。ことの発端はTwitterなのだけど、そのことは正直どうでもいい。ただ単に私が感じてきた憂鬱が噴出した、っていうだけだから。
憂鬱というのは、SFが今までもこれからも思想とともにあるものであり、またその中にはフェミニズムが入っていた、ということ、このことがどうにも忘れられやすいというその状況への憂鬱だ。
いまさら、メアリー・シェリーっていう人がいて、母親はフェミニストで、『フランケンシュタイン』を書いてね、なんて丁寧に説明するのもかったるい。あるいは、ジェイムズ・ティプトリー・Jr.って人がいてね、なんていう話も。アーシュラ・K・ル=グィンは『夜の言葉』という評論集で自分の作品へのフェミニズム・クィア批評に応えていて、なんて話だって。小谷真理さんという凄い方がいて、フェミニズムとSFについてずっと語ってきて「センスオブジェンダー賞」をやっていて、という事も一般常識だと思ってる。中島梓こと栗本薫さんが批評と実作でSFとBLを描き、萩尾望都さんをはじめとする漫画家がフェミニズム的に読み解きうるSFを多数描き、少女漫画ファンの女性がSFを読み、なんていうことは言うまでもない。
今更説明することでもないそれは歴史だ。言うまでもない、説明することでもない、というのはほかならぬ『SF』というジャンルにとって。だから私はこの文章でSFという内部に向かってこんなにもSFはフェミニズムでクィアだという話をする気はない。Wikipediaでもみればこのことは簡単に一望できることだからだ。外部に対する説明はちょっと荷が重い。
ただ私が憂鬱になるのは、それがなかなか内部にならない、ということへの疲労感だ。私というSF読者がどうしてもSF外部にいるように思てしまう個人的な憂鬱と言ってもいい。
たとえば、神林長平さんの初期の作品を読むとその中の激烈なミソジニーとマチズモに驚かさせられる。だけどど後の『グッドラック 戦闘妖精・雪風』ではホモソーシャルにおけるミソジニーという概念に、強烈なカウンター攻撃を仕掛けてくる。作中に登場するエディス・フォスは、上昇志向の強い精神分析医で当初は非常に嫌われる。だが彼女は主人公たちのショーシャルと個性の特異性を尊重しながら、主人公たちのマチズモと他者への攻撃性を批判し解凍していく。そして彼女を嫌な人間とみていたことがある種の偏見であったことを解き明かしていく。
それは初期神林作品への問い直しであり、自らの批評でもあると私は読んだ(称賛しているわけではない)。
フェミニズム作家としても語られるル=グィンもそうだ。彼女は評論集の『夜の言葉』で自作『闇の左手』に寄せられた評論への応答を行っている。ジェンダーSFの代表作とされる自作1へと寄せられた指摘に一つ一つ答えて、自身のスタンスを長い時間をかけて(76年における自論と89年の改訂で彼女自身が自論への反論をしてる)解説してる。最も深く語られた同性愛を描かなかった反省はその後の彼女の実作で見ることができる。
だからSFというジャンルの小説がすごい、という話ではない。このような成果を読み解き考え、推進させる力がSFというジャンルの視界から抜け落ちていくことを私は言いたい。
Amazonレビューを見れば、フェミニズムやクィア、人種差別を取り扱うSFに対する嫌悪感は常に表明されている。だがそのようなものは常に名作や古典の中にあるものであり、決して外部のものではない(もっともこうした外部へとフェミニズムなどを排斥していくの強さはゲームや映画といったメディアの形式に依拠した大きなコニュニティよりは洗練されているし穏やかなものだ)。
だがそれがなぜ外部のものと視なされるのか。その構造を問わない限り、ジャンル内にどのように豊かな作品があり、BLがあり百合があり様々なフェミニズムがあっても、それは豊かになり切れない。
実作だけではなく批評あるいは言説という側面においてこれは問われなければならない。もちろん小谷真理さんや中島梓さんのような書き手はいる。けれどあまりにも少人数の人たちにテーマを背負うことの負担をかけすぎてきたのではないか。ということは問題意識の一つとして常にある。誰かは何かの声を代表できないのにもかかわらず(このことは伊藤計劃さんの作品におけるポストフェミニズム的なフェミニズムへの無関心さにもかかわると思う。それはまたいずれ)。
当然ながら、若い書き手でもこうしたテーマを前面にあるいは背景に出す作家はたくさんいるけど、これはあまりにまじめすぎる問題なのかもしれない。翻訳家小説家詩人の矢川澄子は「不遜の少女の発言を封じこめることくらい、たやすいものはない。曰く、糞まじめ。曰く、フェミニズム。その二言くらいで相手は簡単にねじふせられる──」とかつて語っていたけども。ねじ伏せているか、封じ込めているかはともかく、安易にセンスオブワンダーにも回収できず、共感を呼ぶものでもなく慎重に地道に語る抜き身の言葉というのは、取り上げにくく見つけにくいのは確かだ。
たとえば、またたとえば、と言ってしまうのだけど──思考実験としてもSFは面白いけど、同時に弱みになってしまうところでもあって、特にトランスジェンダーみたいなマイノリティはSFの思考実験の道具として現実から切り離されたところで使われがちで、古典から新作まで嫌な使われ方をされている。SFに私が賭けるものは、未来や異世界を考えることで現実の問題の読み方を変えること、なのだけどこの時には
①現実の問題を使って異世界を見せる
②読み方を変えた結果現実の問題の重大なポイントが置いてけぼりにされる
③問題が安易に解決される、
というよな隘路が常にあり、ともするとマイノリティの現実は犠牲になる。こうした議論はたぶんきっととても正常でまじめだ。分かりやすい言葉には多分ならない。敵も味方もない。そういう意味では私も取り上げられていないものがたくさんあるだろうし、これは反省がある。
その意味でちょっと思い出したりするのはSFマガジンの百合特集の1でも2でも、フェミニズムであったりクィアな視点を重視した言葉は百合特集ページの外にもたくさんあったということだ。言葉はそういうところにたくさんある。そしてまた多数のブログやTwitter、そして同人誌や読書会、色々な会話。それらはたぶんジャンルから異端と遠巻きにされているからこそ正常であり、異端ではないことを主張する文章だ。ちょうどクィアという言葉が変態とされていたからこそまさにその言葉を取り戻そうとしたように。そうした地道な言葉をきちんと拾うにはどうしたらいいだろうか?
書くことだ、というのはその通りで、だから私はこうしてキーボードを叩いている。先日とても良い企画にお呼ばれして書かせていただいたSFとフェミニズムに関する文章もそのうちお知らせできると思う。同人誌『ますく堂なまけもの叢書 平成の終わりに百合を読む』で書いた文章を編集者の方に発見してもらって『SFマガジン 第七世代特集』にも書かせていただいた。ただそのような形で何を書いても私はだれかの声、何かの思想を代表することはできない。むしろ斬り合いたい。そして書くことの特権という物も考える。書くことが裏腹にある能力主義。書けばいいじゃん、という言葉の他人事感は批判されてしかるべきだろう。多様性とはそのようなものか?その主体はどこへ行った?書けばいい、の裏では文章が乗る土俵のこともまたあり問われねばならない。変な土俵には乗りたくない、けども。
2021年4月27日
近藤銀河