KADOKAWAによるトランスヘイト本の翻訳出版について
↑『体を保つこと/体を崩すことの間のクィアな葛藤1』(スマホを見ている人の形をした物体。服は形を保っているが体の半分がどろっと溶けているか、膨らみを失った布のようになっているCG画像)
2024/01/16追記
またさらに追記することになるとは思わなかったけど、いや実は思っていたけど、書き記す必要があると思ったので追記する。
また新たにKADOKAWAから酷い本が出ることになった。酷い、というのは本文で書いているように酷い政治を巻き起こすことで売れることを目指す本のことだ。
出版の一部は、そういう注目を浴びることで売れることを露骨に行っていて、私もその中から逃れられないのかもしれない。それでも、私は何度でも絶望しておきたいと思う。ずっとそうしてきたし、これからもそうしていくように。絶望を繰り返すことを私は辞めないだろう。
それにしても、皮肉にもとても象徴的なタイトルになってる。ああいうヘイト的な振る舞いこそ、日本のゲームカルチャーをとりまくメディア、掲示板、ブログなどなどが育てたものなのは、本当に間違いがないから。
しかし忘却の淵から突き落とせないのは、それは主流として作られてきたけど、全てではなく、その中に常に傷つけられるバルナブルな状態の周縁化されたマイノリティが居続けていることだ。どこでも、書店でもそうであるように。
日本でゲームというカルチャーを常にあのような振る舞いの人々が独占しようとしてきて、カルチャーを取り巻く掲示板やブログも多くがそれを容認して、マイノリティを周縁化してきた、そしてまたそれが繰り返される。ゲーマーズゲート事件から、Qアノン、トランプ政権が連鎖したように、そこから差別が拡大していく。そしてまた大きなところがそれを承認する。
そしてそれがどこでもいつも、起きている。それに何度も私は絶望する。
12/5追記
ここで話題にしているトランスジェンダー差別を事実誤認によって煽り、その煽りの力で売ろうとしていた本は刊行中止になった。私はそれに喜んだ。しかし、その喜びは捻れた喜びだ。売るために差別とデマを使われ、広められ、踏みつけられ、回復不能な傷ができて諦めていた時に、致命傷ギリギリのところで暴力を止められ、助かった、というのがその気持ちだ、と私は思う。
マイノリティが差別され、それと戦う時、こうした理不尽なな喜びのようなものを感じざるをえない瞬間が何度もある。そしてそのたびに何かが砕かれていく。
今回の刊行中止の説明文は、あくまで内容説明やタイトルの問題、それもそれらを使った”議論の深め”が結果的に問題をもたらしたという説明になっている。議論自体が問題であり、事実を捻じ曲げた差別であることは、すでに多くの指摘がある(英語圏でもあったしすでに日本語に翻訳されたものもある)。今回の刊行はその差別を日本語圏により強く移植しようとするものだった。またそのような差別が起きる環境を作ろうとするものだった。
その意味でもこの刊行中心は、殴っているのを途中でやめた、程度のものだと私は思う。始められた売るための差別煽動としての”議論”は回復不能な傷を残している。今回の説明文はその傷の回復を目指すものではなく、その可能性を持つものでもない。文中で傷について言及があるが、それはなされた行為と対応する傷ではなく、本当に傷を作った行為の原因については触れられていない。
今後、傷の回復のために(完治はしないだろう)、本自体の問題を考えたり、内容説明の問題や、刊行プロセスの検討がKADOKAWA自身の手で行われていくだろう。そのはずである。しかし、その傷の回復に駆り出されるのは(刊行中止説明文が当事者をなぜか前線に立たせていたように)、このことによって傷を負った当事者自身になってしまう可能性があるだろう。日本における”専門家”のことを考えればそうなってしなう状況は想像できてしまう。
でもそれはとてもおかしいことだ。傷を負った人々は傷を負いながら、コミュニティの中ではなく、外に向けて説明を表や裏の様々な場所ですることになってしまう。刊行がもたらした傷は、様々な当事者と社会の間にあり、すでに存在する差別を増幅させる傷になったと同時に、当事者一人一人の中に残した傷でもある。
以下の文章に書いたように、今回の刊行は様々な意味で差別のフェーズを書き換えるものだった。それはまた、新しい傷をたくさんのコミュニティに作り、また思い出させるものだった。傷の中には発掘された傷もある。そのようなマルチに存在する傷を私たちはどうしていけばいいのだろうか。
そのように考える時に想像される様々な理不尽に私は今怒っている。そして改めて、様々なヘイト本が並ぶ異様な書棚に怒りたい。
12/6さらに追記
日本語で本が出れば差別的なのかどうか検討ができるという発想自体が空想的である(なぜなら本を読んだだけで反論することは知識がないと難しいし、より具体的な反論材料は英語の文献に結局頼る必要がある)上に、そもそもKADOKAWAの売り方が、差別的であるかどうかを検討してもらう余地を、読者に残すものではまったくなく、差別を煽ることで売ることを目的としていたのはあからさまであるという点も、全く抜け落ちた議論になっている。
そしてどちらの段階でも、さまざまなトランスジェンダーの人たちが負わされる危険を無視している。議論全体を翻訳するのではなく、批判された論を先に翻訳するのは、意図的な行為であり、その意図を咎められるのは当然の批判のはず。
問題なのは誰にとってその翻訳が必要なのか、ということであり、すでに批判も翻訳されているものの、その規模は小さく、またそのような批判が存在することを前提としないで過去の本を翻訳することは、明らかに差別されているトランスジェンダーのための行為ではなく、内容説明から明らかなように、それを差別している人に向けたものになっている。
もし出版の中止について考えるなら、そのようなことを考えた上で、上述の誰がどう傷を癒すのか、という文章をまた読んでみてほしい。
以下の文章は刊行中止発表前に書かれたものです。
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あえてリンクは貼らないが、KADOKAWAのような大手出版社が、トランスヘイトの本を翻訳し、あまつさえ、内容説明にわざわざ日本の特例法への違憲判決に触れ「子供」を「守る」ためにと書き、差別意識と恐怖を煽り、本を売ろうとする姿勢を露骨に見せていることを現実だと認識できない。世界がまた目の前で歪んだのを感じる。
そこでは本を売るために差別と危機を盛り上げ火をつける姿勢が濃厚に溢れかえっている。それはもちろん、これまで特に日本国外の人々に向けた差別を使った出版業の中でたくさん行われてきたことだった。私たちはそれを忘れてはならないし慣れてもいけない。多くの書店の棚は異常なものであり続けている。
そしてまた、トランスジェンダーへの差別については、いろんな人がいろんな場所で頑張ってきたからこんな程度で収まっているのだと思う。けれどまたフェーズが進んでしまった、と感じてしまう。バズによる注目のために差別意識と危機意識を煽るやり方を、KADOKAWAのような日本の大手出版社が、本を売るために模倣している。雑誌でもずっとやってきたことではあるけど、こうして本としてみると本当に衝撃がある。
すでにシーラ・ジェフェリーズのトランスジェンダー差別を含む内容の本が出版されていたいたが、あれは美学に関する本という建前をギリギリ保っていたが、今度の本はトランスジェンダー差別であることを隠しもしない。露骨なまでにそれを押し出している。
私は、この世界でどう生きていけるのだろう? 本の中でターゲットにされている若いトランスジェンダーの人々は? これまでずっと何人もの人たちが必死にしてきたことは、出版社にさえも伝わらなかったのか? こんな本の売り方がありえるのか? 悪意と差別と売ることが一体になった文章をどううけとめられる?
また、ここでついにトランスジェンダー男性やノンバイナリーといった人々に対する悪意が剥き出しになっていることにも注意を払っておきたい。大きなメディアでは従来トランスジェンダー女性への差別が際立っていたが、内容紹介ではトランスジェンダー男性やノンバイナリーに対する悪意がむき出しになっている。すでにこの傾向は色々なところで見られており、人々には苛烈な差別が向けられていたが、これもやはりフェーズが変わったと感じさせてくる。
私は今本当にショックを受けている。私が本と出版社を自分でも意外なほど信頼しちゃってたんだろうか。おそらくそれはあるだろう。いずれにせよ生きる力の一部がくじかれ砕かれた。これ以上どう生きられるんだろう。だからこそ、生きてやらなきゃいけないことがたくさんあるのはわかっているけど。
けどもう限界だと思う。全部話していま頼れる人もいないし。個人的なレベルでは一人で耐えるしかない。もう少し大きなレベルでは、なんとかみんなで生きて、もっと変えていくしかない。その力はたくさんあって支持もあるのはわかっている。でも差別をするこれだけの悪意にどれだけ耐えれるかわからない。
本当は一文一文に反論を施したり、あるいはすでに存在する著作や著者への批判を引用したほうがいいのだろう。あるいは今のKADOKAWAがどういうふうになったのか、かつての角川やオタク文化での役割を考えながら、オリンピック買収問題などにみられるように現在の自民党政権とどう接近し、どう日本的なものと一体化していったのかとか(それこうした本を出版するKADOKAWAと関係している妥当)。けど今はそれはできない。ひとまず、SNSでないプラットフォームにこの私のペラペラな言葉で、トラウマ的な体験を生きるために綴るので今は精一杯だ。