吐きそうな気分でいっぱいだ。絶望感がひどい。希望がそこにあるように見せかけられているから。
「種の保存」「生物学」「道徳的に」「運動化の副作用」こう言う発言はわかりやすく批判を受けるし、皆皆様方におかれましても怒りを表明なさると思う。とても良いことで嬉しい。個々のマイノリティが「種の保存」に反していようが、「道徳」を無視していようが、マイノリティの権利を保証する義務があるし、私は多分個人としては不道徳で罪深い存在だけど私の人権は他者との社会構造の中で尊重されるべきだ、というような議論はさておくとして。(これらの発言をした議員も報道されている)
一部報道では自民党会合内でもこれらの発言に異議を唱える声が出ていたのだと言う。変わってきていると言う言葉を一瞬信じたくなる(もっともこんなクソみたいな法案さえ通らないという時点で何も信じられないけど)。
だけど──山谷発言におけるトランス差別に関してはどうだろう?山谷議員のこの発言の途方もない悪質さは、あまり語られないのではないかと私は怖い。変わってきても、いや変わっているからこそ、だ。
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4272613.html
変わってきていると言うことを突きつけられればられるほど、私は絶望していく。なぜって同性愛を筆頭にしたセクシャルマイノリティの事柄やフェミニズムへの賛同が深まるのと裏腹に、トランス差別は苛烈化しているし90年代以降のジェンダー論の議論は一向に参照されないままだから。
山谷議員のトランス排除発言は十数年間何も変わらない山谷議員(と自民党)の姿勢を示すと共に、「変わってきた」「アップデート」されてきたはずのSNSの言論がそれとは裏腹にトランス差別的であり、山谷議員のような思想と変わらない側面を持ってしまっていることを示している。うんざりするけどより詳しく書いてみる。怒っているから。絶望してるから、まだ書ける。
「裏腹に」というのがとても大きなポイントだ。#Metoo運動を始めSNSはフェミニズムやセクシャルマイノリティに大きな転換をもたらした。作家の王谷晶はTwitterができて行こうネットでのフェミニズムのやりとりがしやすくなったとかつて作家の李琴峰との対談で語っていた。
だがトランス差別はこの流れに逆行している。あるいはこの流れがトランス差別を拡大させている。
お茶の水女子大の戸籍変更をしていないトランスの受け入れ表明以来、トランス差別はSNS空間で苛烈になっていっている。発信者の中にはフェミニストが多く、セクシャルマイノリティも少なくない。マイノリティにとってインターネットは大きな役割を果たしている。カムアウトできない状態でのコミュニティへの接触や情報収集、役割は多い。また先述したとおりSNSがフェミニズムにおいて強い力を持っている現在、SNSでの出来事を単に向こうのこととすることはできない。
そうした発信の悪さについては既に議論が尽くされておりここでは触れない。様々な方々が様々な媒体で触れている。こちらのエントリーの文献リストは参考になるはずなので読んでみて欲しい。https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/75739/5ff9ec626caf6ecf9a62c7d5e59107b3?frame_id=423857 またこちらのTwitterスレッドなど。
(ここで尾崎氏は「山谷のトランスフォビアの表明は、ネット上で巻き起こっているトランスジェンダー排除の文脈を知らない人には奇妙にみえるかもしれません。」とあるけど実際、私も現代思想の千田論文について、全然理解不能で何でこんな酷いものが?という意見を聞いたことがある)
山谷議員の今回の発言はこうしたSNSのトランス排除言説と密接に繋がるものだ。山谷議員は「種の保存」「道徳」を言外に否定してみせている。
だが、トランスを藁人形にした排除発言は確かに行なっている。このことから、山谷議員は「種の保存」「道徳」からLGBTを否定するのはまずいが、トランスを使って「ばかげたこと」と批判することは問題ないという認識が伺える。
このような線引きは実際のところ前述したようなSNSでのトランス排除言説に沿うものになっている。
この戦略が果たしてSNSの現状を認識した上でのものであるのかどうかは定かではない。ただ政治家の中でも現実のトランス差別を助長する動きは少なくない。
https://mainichi.jp/articles/20210509/k00/00m/010/077000c この報道などはまさにSNSに見られるトランス排除言説が議員たちが講演として聞いていることを示す。
こうした中でトランス排除の言説に乗っかることで同性愛差別、女性差別という批判を交わしながら保守的な体制を維持しようという戦略が出てきても不思議ではない。
実際、この戦略は何も新しくない。だからうんざりして絶滅する。
安倍晋三議員と山谷議員は00年代に「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクト」を立ち上げ、フェミニズムへのバックラッシュを行っていた。https://web.archive.org/web/20051027054951/http://www.jimin.jp/jimin/info/jender/index.html
簗和生議員による「種の保存」や西田昌司議員の「道徳的な価値観」発言もこのバッシングの中で繰り返されてきたロジックだ。
だがそれのみならずここでは「ジェンダーフリー」によって教育の現場が「トイレが男女一緒」や「男女混合宿泊」が実行されていると主張される。だから伝統文化を尊重しジェンダーフリーを排さなければならないというロジックがここでは使われる。
江原由美子はこうしたバッシングを分析し、実際はジェンダーフリーがフェミニズム内部のむしろ穏健派によって使われる言葉であったことを指摘した上で、このバッシングが過激なジェンダーフリー思想という「幻」を使い「女性行政」を否定するための戦略であったことを示す。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/kantoh1988/2007/20/2007_20_13/_article/-char/ja/
山谷議員の今回の発言はまさにここで分析されている戦略と同じものだ。「ジェンダーフリー」をここで「トランス」に入れ替えればおおよその骨子は成立する(トランスが穏健派であるかは個々によるだろうけど)。
だけども同時に、この戦略はトランス排除言説を使いトランス差別を煽る人々の戦略とも同じものでもある。過激なトランスという藁人形で、トランス全体への排除を進めようとする動きだ。
またトランス排除言説に手を貸す学者の中には美学者の三浦俊彦氏を始め、フェミニズムへのバッシングも同時並行で行なっている(同時にいいフェミニズムと悪いフェミニズムを線引きする)ものも少なくない。
このように見た時、山谷の発言は20年近く続くバックラッシュとSNSから広まるトランス差別の結合としてみることが出来る。
堀江有里はこうしたバックラッシュへの対抗言説が作られる中で「が性別二元論や異性愛主義を前提とせざるをえなくなって」いったことを指摘している。そしてまたこの問い直しがフェミニズム内部での対話ではなくフェミニズム外部との戦いという形に変更され、マイノリティの声が殺されたことを指摘している。
堀江はここで議論が深まらなかったことを2016年のこの論考のなかでいまなお解決されないままになっていることを課題としてあげているが、まさにこの「社会規範として存在する性別二元論や異性愛主義をめぐる議論が「対立を煽る見解」と認識されることで、フェミニズムが一枚岩であるかのような振舞が生み出される。そこで、セクシュアリティのポリティクスが他者化されるという意味において、「公」と「私」の恣意的な線引がなされていったと解釈できる」ことが解決されないままに来てしまった、そして議論の蓄積を無視した議論があまりにも発展してしまったことが、バックラッシュ言説とフェミニズム/セクシャルマイノリティの言説が一致してしまった現在を招いたのではないか? https://www.ritsumei-arsvi.org/publication/center_report/publication-center24/publication-400/
これら全てのことを踏まえた上で私は心底うんざりする。
「種の保存」「生物学」「道徳的に」「運動化の副作用」にうんざりしながらトランス排除言説の広がりがついにここまで来たことに。
前者の群れは丁寧な批判がなされていくと思う。けどその批判の中で再び、フェミニズム内部での問題としての対話が行われないままでは、この地獄は変わらない。
うんざりするうんざりするうんざりする。まるで全てが外部の問題であるかのように振る舞える、その安全な振る舞いに。なんといってもこのトランス排除の地獄は世界にも広まって、かのJKローリングも同様の発言をしている。IGNのようなゲームメディアも翻訳記事を見ればウィザーディングワールドの記事では常に慎重にローリングに言及しているのがわかるだろう。
ローリングはフェミニストでゲイフレンドリーな作家だ。そのことをどう捉える?間違ったフェミニストと言ってしまえばそれまでだけど。でも果たして本当にそれだけ?私も大好きなレズビアン連続体を語ったシスターフッドのスター、アドリエンヌリッチはレズビアンの中のフェムやブッチといった広義でのトランスを批判していたし、悪名高きアンチトランス理論書「トランスセクシュアル帝国」の著者はリッチを好んで引用している。フェミニズム/レズビアンの高名な指導者と、トランス排除言説の親和性は一体なんだろう?あるいは中流白人フェミニズムの有色人種の無視のことを?平塚らいてうの戦争協力は?
間違ったフェミニスト/フェミニズムという外部を作れば安全でいられる?
私はこれらの絶望を乗り越えて、差別を生産するフェミニズムの内部の批判とともにフェミニズムとクィアを考えなければならない、と信じてフェミニズムとクィアをやっている。だからどれだけ絶望しても考えるしこうして書いてる。なんていうとすごくマッチョで嫌になるけど。
終わりに。ただただ私は事態がここまで来てしまったことに疲れを感じる。ついに「過激なトランス」を使ったトランス排除言説が、保守派の指導者によって「LGBT」排除に使われるにいたったのだ。
LGBTQと言ったワードによる、セクシャルマイノリティの連合というのは途方もない努力によって作られたものだと考える。たとえば江戸時代の男色は極めて女性差別的なものだったし、日本のパレードの中でもゲイ、レズビアン、バイ、トランスの間で差別と対立があったし、今も2丁目のような場所でさえアセクシャルの排除が聞こえる。バイセクシャルのマイノリティさもそうだ。それでも私たちは戦後の上野警視総監殴打事件のように様々なマイノリティが力を合わせたり、ストーンウォールインのように共闘したり「ホモソーシャル」概念を作り女性差別とホモフォビアを重ねてここまでやってきた。
これは決して所与のものではなく、文字通り勝ち取った連合だ。今でも内部には様々な不均衡が残されている。
だからこの脆い連帯は意識しなければすぐに解れるだろう。
議員によるトランス排除言説の応用は良いセクシャルマイノリティと悪いセクシャルマイノリティを選別していく状態を作る可能性がある。それは「種の保存」「生物学」「道徳的に」「運動化の副作用」といった言葉以上に、分断を生みやすい。だって既に藁人形になっている存在を藁人形にしてるのだから。
トランスジェンダーを排除した「LGBQ」運動は容易に起こり得る。実際、小規模に起きているし。
今回の山谷発言はこういう効果を狙ったものだし、これを理解しないまま「種の保存」「生物学」「道徳的に」への批判だけを行うのは、怖さもある。表面上はみんなで抵抗しているように見えるし、何も問わなくて済むのだけど。もちろん、その場その場の議題に集まって抵抗していくことは理想ではある。でも、でも、けれども、しかし、なんて思ってしまう。それともこうやって考えること事態が分断を生むの?
とため息をつきながらここで書く気力も尽きた。