バイデン政権に期待することと恐れること『Bioshock』シリーズが描く二つの同じ異なったアメリカから
バイデン大統領の就任式を見ながら、私はゲーム『Bioshock Infinite』を思い出していました。
あまりゲームに興味ない方にも聞いて欲しいのですが、
『Bioshock Infinite』はアメリカのリバタリアンが生んだ能力主義と資本主義に基づく海底都市ラプチャーの地獄を描く『Bioshock』の続編で、『Bioshock Infinite』では前作と打って変わってピューリタンを先鋭化させたキリスト教保守カルトによって作られた天空都市コロンビアが描かれます。
前作に登場したラプチャーは作られた都市で能力主義を徹底した倫理や常識の制約のない世界であり、能力があれば人種や国籍も問われず同性愛者も(もっともこの作品に登場する同性愛者はステレオタイプの狂った芸術家で酷いものでしたが)上り詰めることができる(表向きは)社会でした。
一方でコロンビアは、黒人を見世物にした処刑劇が行われ、黒人用トイレと白人用トイレが分たれるキリスト教保守派によるアメリカ例外主義に基づいた差別的社会です(もっともなぜか女性差別はここでは描かれません…敵の幹部も兵隊も男女同数が達成されているのですがキリスト教保守を描く際にこの女性差別の曖昧化は黒人差別の描き方と比べると鼻白むものがありますね。もっとも同作に登場する女主人公は受動的に躾けられた能動的な女性で、近年のディズニーヒロインを思わせる強さでもって父殺しを成し遂げるのですが…彼女には女友達はいませんでした)。
『Bioshock』はこんな風に、現代社会の根底にある危険な歴史と思想をシミュレーションするシリーズなのです。
さてネタバレになるのですが、『Bioshock Infinite』はここから更に問いかけを行なっていきます。
実は空中都市コロンビアを築いたカルト教祖と、冷徹なリアリストである主人公の探偵(ゲームの舞台となる時代有名な探偵会社であったピンカートン社は企業を守るゴロ付きであり、労働争議を破壊するなどさまざまな活動を行なっていたことも知られています。主人公は探偵になる前は義和団事件で中国人を虐殺しインディアンの民族浄化を行なった人物です)は実はパラレルワールドの同一人物であり、僅かな選択の違いが全く異なる帰結にたどり着いたということが明かされるのです。
ゲームは更に問いかけます。この二人は結果として別人であるが、実は同じクソなのではないか?
物語の中盤で、主人公は自らの行いからくるトラウマと格闘し、殺ししかできない自分にあきらめを覚えつつ、教祖を止めるためにある決意をします。それは教祖が子供の頃にタイムワープし、この子を殺すといううものでした。
ですが、その子供とは他ならぬ主人公であるのです。主人公は自分が探偵であり教祖でもある両方の人間だということを認め、タイムワープによって子供の頃の自分として洗礼の最中で殺されることを選択します。
キリスト教保守派のカルト教祖としてアメリカによる虐殺と搾取を正当化する人物も、それにやさぐれ探偵として汚れ仕事で糊口を凌ぐ人物もコインの両面であるることが示されるのです。
しかしこの主人公とは何を表すのでしょう?それは間違いなく、アメリカそのものでしょう。
主人公はゲームの中でパラレルワールドをたびたび行き来する用になりますが、このパラレルワールドを移動するたびに、記憶が二重化していきます。元居た世界の記憶と、移動した先の世界の記憶。この異なるものの多重性をゲームは執拗に描き、そしてそれが実は一つのものでしかないこと、結局どのような選択の先にも破壊と暴力しかないことをゲームは示すのです。まるでアメリカがそうだというように。
更に『Bioshock Infinite』の追加ストーリー『Burial at Sea』では前作に登場したラプチャーで暮らす主人公が描かれ、そこで彼は元教祖で現探偵として描かれます。教祖であった過去を捨て、逃避先として海底都市を選んだのです。(ここで黒人同性愛者がモブキャラとして描かれる場面はゾッとしました。彼らは決して天空都市コロンビアには登場しえない人間ですが、だからといってラプチャーが楽園であることを示すわけではないのです。批判性を奪い取った"資本主義によるクィアの取り込み"は時におぞましいことになります。日本では渋谷区にやっていることが象徴的ですね)。
このストーリーの中で彼は天空都市とは真逆の海底都市に、いたく順応しています。
ここでゲームは、主人公の教祖/探偵という二重のアイデンティティの上から更にラプチャー/コロンビア=リバタリアン/キリスト教保守という複合性を描くかのようです。ラプチャーの作り主は宗教を否定しながら自身を神になぞらえ、ラプチャーの例外性を主張しますが、それはアメリカ例外主義と重なるものであり、コロンビアの作り主がアメリカらしいアメリカになるためにアメリカを離脱したことと、その主張は重なります。
ラプチャーはアメリカ文化を随所に取り入れた都市でありアインランドの影響を受ける国です。ラプチャーはアメリカにおける神への信仰や様々な(保守的なものも革新的なものも)倫理観を否定した都市ですが、その実これは極めてアメリカ的な都市でもあるのです。
また『Bioshock Infinite』には、度々選択肢が登場するのですが、多くの作品と違いこの選択肢は何の変化も生みません。それは、ゲームのシステムとして、同じものから生まれた選択肢は所詮同じものでしかない、という痛烈な批判を物語と合わせて展開するかのようです。
この皮肉はまるで現実になってしまったアメリカの今を描くかのようです。
アメリカという国よりもアメリカらしくあろうとキリスト教保守による陰謀論とともに作られた差別的なカルト集団と、例外主義を先鋭化させ作りあげられたリバタリアンの見せかけのインクルーシブルを謳う新自由主義的な都市。
ゲームは結局のところどちらも地獄に陥ることを描いてみせます。ラプチャーではすべてが──人間でさえ──弱ければ文字通りの商品として流通させられ、コロンビアでは、白人たちは陰謀論によってコントロールされ差別を受ける黒人やアイリッシュは労働力を搾取される。前者でも後者でも、弱者は団結を阻まれ、憎悪を扇動される。
それはアメリカがたどってきた地獄のようでもありますね。一方では能力主義と新自由主義のよって破壊された集団があり、一方にはQアノンのような扇動的な集団がある。
資本を生む能力さえあれば、すべてが問われないドリームの国アメリカ、差別と虐殺の上に成り立った白人至上主義の国アメリカ、両極端なこの二つのアメリカは、それでもなお、どちらも極めてアメリカ的です。
トランプ政権の4年間は間違いなく、コロンビアのアメリカでした。排除と見せしめ、先鋭化する言葉と敵の指定、キリスト教保守への目配せと、批判を許さないアメリカという国家への執着。この四年間で、人種差別や性的マイノリティへの差別に基づく犯罪は急増し、それに反抗する暴動も何度も起きました。こうした出来事は、アメリカのみならず日本にも波及し、多くの混乱を生みました。
バイデン政権は、多数のマイノリティを閣議に参画させ、インクルーシブな世界を謳います。私はそれにほっとします。一方で、マイケル・サンデルのような学者はは民主党がいまだに能力主義によるアメリカンドリームを語ることを批判しています。意地悪な見方になりますが、バイデン大統領の就任演説ではアメリカという言葉をトランプ元大統領の就任演説と同じくらいか、より多く使っています。
過去、アメリカはネオリベラルな市場主義と能力主義を蔓延させてきました。間違いなくそれはトランプよりもましな地獄でったかもしれませんが、しかし地獄に他ならない。
それはとてもアメリカ的な地獄でしょう。
果たして今後のアメリカはどこへ向かうのでしょうか?
バイデン政権がかげるリベラリズムは、ネオリベラリズムの地獄を和らげることができるのでしょうか?
バイデン大統領の就任演説を見ながら、私は『Bioshock』を思い出しそんなことを考えていました。
『Bioshock』シリーズはしかし絶望と同時に希望も描きだします。それは時に自分にとって困難であっても、正しく生きること、です。その小さな反抗の積み重ね、自分が踏みつけているものを問い続ける反抗が、最後には希望をもたらすのだ、と。
そしてまた今のアメリカは、しかし『Bioshock』が問いかけ忘れたことを拾おうともしています。一つにはそれはマイノリティの生です。『Bioshock』シリーズが問うたのは、ゲームの主人公という立場の一方的な権威性を、白人男性の権威性と重ねたマジョリティへの問いかけでした。
しかし、近年の米国産ゲームはむしろゲームというインタラクティブ性でもって、マイノリティのエンパワメントとマイノリティの疑似体験を拾い集めようとし始めています。
これはそして、今のアメリカが目指そうとする理想でもあるのでしょう。
語られだしたアメリカ史。
私の知っているアメリカにはボールドウィンやトニモリスンのような優れた黒人作家がいて、彼ら彼女らが言葉を使い、時に街頭に出て、差別を告発し糺してきた歴史を知っています。
HIV禍で立ち上がったセクシャルマイノリティやセックスワーカーを知っています。
BLMを掲げて立ち上がった黒人クィアの人々を知っています。
それらのことは、油断すれば資本主義と能力主義に取り込まれてしまうでしょう。ポストフェミニズム、ネオリベラリズムという帰結。そして権力の暴力と美名の死です。それらはともすれば強いアメリカというイメージのための燃料にならざるを得ない。残念ながらアメリカは巨人であり、巨人の自意識を扱いかね続けています。『Bioshock』だけでなく、多くのAAAエンターテイメント作品がそれを問い続けています。
果たしてこれからのアメリカはどうなるでしょうか?できればそれがラプチャーでもコロンビアでもないまた違う場所であって欲しく、どうか今度はアメリカを殺せるようなアメリカであってほしいものです…。