連中にとって望ましい女同士の関係と映画『アンモナイトの目覚め』奪われる女の分断と引き離される女たち
「女」は社会にとって都合の良い時だけ、つながり合うことを求められる。
同性愛は許されないが友情はむしろ奨励されるし、女の子らしさとしれ受け止められる。手を繋ぐことさえ女同士であれば「許される」。
どのような時代でも、女が女とつながらなければ、「男」の社会は立ち行かない。
だが、それは一線を超えない限り、だ。権利を求めない限り、デモに行かない限り、声を荒げない限り。
そうやって語り出した女に投げつけられるのは「女の敵は女」という言葉だ。
人間の敵は人間であることが多い(私は時々蚊と戦っているけど)。人間の中には女も含まれる。女と女が戦うのは当然のことでしかない。
だけどそういう戦いは奪われる。男に、ではない。その機構を維持しようとする連中にだ。その機構は女とは誰かを誰かが決めるるし、女ではない女を全ての下位におこうとするような振る舞いをする。
そしてこの機構は、女と戦う女によっても構成されその力を行使する。
映画『アンモナイト』で、主人公で古生物学者のメアリー・アニングは、地質学者のロデリック・マーチソンから彼の妻であるシャーロット・マーチソンの療養とケアを託される。面倒を見ることを嫌がるメアリーだったがシャーロットがひどい高熱を出し、診察に訪れた男の医者から女同士(Sisters)は助け合わうように言われ、看病をする中で心を通わせていく。(ここでは深く触れないが、女性がキャリアを無視されケアを任せられることへの不満などもきちんと描かれている)
この展開は私にはずっと突き刺さっている。
映画のメインモチーフはメアリーとシャーロットとのレズビアン関係だ。そして終盤では彼女たちの関係が異性愛主義的な男性社会の構造の中で困難なものになることがメインのドラマになっていく。
だけど、彼女たちをはじめに結びつけたのは、この男性社会だ。ロデリックは自身のパートナーのシャーロットに理想の女を求め続け、自身の考える療養が効果を発揮しないとなるとメアリーに上部だけの敬意(クソみたいな)を見せて押し付けた。
そして医師は自身の仕事を放棄し(お金の事情もあるだろう)女同士というシスターズの連帯を促す。
だけど、映画の中で彼女たちは二人だけで生きていくことはできない。収入も足りないし、そのような関係性は異性愛社会の隙間を縫うようにしか成り立たない。映画の終盤はそのことをはっきりと示す。
彼女たちを結びつけたのも、男社会であり、彼女たちを引き離すのも男社会なのだ。
日本でもアメリカでも学生の女性同士の友愛は初めは許容され、また時には奨励されるものでさえもあった。
だが、一度それが危険な領域に触れるものであることが──心中という行為や同性愛というアイデンティティの誕生、そして関係の永続化と異性愛の否定──明らかになるとこの友愛は否定されるものになっていく。
ロマンティックな友情と言われたアメリカにおける大学生の関係は、レズビアンという概念の形成に従って排斥されるようになったし、女学生の愛は心中という社会への拒絶が明らかになった時に同性愛概念の導入と共に危険な色を帯びるようになった。
女同士はこうして社会のために訓らさせられる。
社会は女も動員して、女を殴らせ満足すると、女と仲良くするように言付ける。
この状況の中で一体どんな女の争いが可能なのだろう。
お前らの利益ならないで女は女と争えるのだろうか。女ではないただ一人の人間として?だが同時に人間イコール男でもない存在として?
だけどそんな答えを出す前に、いやそんな疑問よりも前に女は女と争わざるを得ないし、女はあらゆる人間と争わざるを得ない。
女も男ももはや人間ではないが、お前のような「(任意の属性)」のなんて!という罵りは常にどこからでも滲み否定してくる。
そうしてこの女が行う争いは常に収奪され簒奪され、相手ともども一切を奪い取られる。
だがそれでも女は女と、あるいは女性化された存在と争わなければ、女でも人間でもあられなくなる。
たとえその戦いの悉くが、クソみたいな存在の利益になるのだとしても。
映画『アンモナイト』のラスト、メアリーにシャーロットは夫の陰に隠れて共に生きようと提案する。友達のふりをして一緒に過ごそうと。夫はメアリーのファンだからメアリーを受け入れるだろうと。シャーロットの夫はメアリーの業績を奪い軽視したアカデミーの一員だ。彼の払う敬意は偽物でありそれは学者としての敬意ではなく、彼はシャーロットのことも見下している。だからこそこの共同生活は可能だとシャーロットは考える。
当然、この考えはメアリーには受け入れ難い。激怒する。
だがシャーロットの提案はシャーロットが生きざるを得なかった生のあり方そのものでもある。メアリーの激怒もメアリーの生に根ざしている。
シャーロットにはメアリーの怒りが理解できずメアリーにはシャーロットの楽観が理解できない。
映画のラストで、二人はメアリーが発見し記録して分類したイクチオサウルスのある大英博物館の展示室で再開する。だがそのイクチオサウルスはまたメアリーの業績が軽んじられたことの証でもある。映画はその前のカットで執拗に大英博物館に飾られた偉大な男たちの肖像を見せつける。
主人公のアニングが男社会から阻害された証拠のような化石を挟んで見つめ合う二人のラストカットは、一体なにを示すのだろうか。
映画の冒頭は、イクチオサウルスの化石についたラベルからメアリーの名前が消され別の人物の名前が貼り付けられる場面から始まる。
だが果たしてこの映画をどう解釈すればいいのだろう。そもそも実在のメアリーアニングは同性愛者でも異性愛者でもないとしかわからない。彼女のアセクシャリティの可能性を考えれば、同性であれ異性であれ性愛者として彼女を描くのはマジョリティによる収奪ではないか。
性愛に回収されないことこそ、もっとも危険な友愛だとしたら、この映画は結局ある種の収奪を行なっているだけなのではないか。
そしてそんな映画がまるでこの強制性愛制度に自覚的であるように、女を結びつけ女を引き離すマジョリティを描いてみせるのは一体どうしたことなのだろう。
そしてアンモナイトにMale Gazeを取り込んでいるという批判が出るのは??(個人的にはアンモナイトにはBL作家が描く百合みたいな転倒を感じるのでここは安易に断じられないけども)。
いずれにせよ社会は、女を結びつけ引き離し、争わせ友愛させ、それを横合いから盗み取ろうとする。女を女にしておくために、女でないものを女にしないために、女たちのエネルギーを奪い利用する。
そして連中は、エネルギーを生む痛みにも怒りにも熱にも愛にもなんの興味もない。エネルギーが楽しく面白く役に立つだけだ。
私はナショナリストの女と争うし、本質主義の女と争うし、トランスを差別し区別する女と争う。
だけどそれは連中のためでなどはない。絶対に、絶対に、絶対に。
だから私は『アンモナイト』のラストに願う。この分断が、断絶が、溝が、映画からさえ収奪されませんようにと。