※クィアと死とトランスジェンダー差別に関する話がたくさん出てきてます。あまり疲れてる方は読まれないように……。またトランスジェンダー差別に反対していくための情報はあまり記載がありません。そうした情報は https://trans101.jp/ や『トランスジェンダーと性別変更』(岩波書店)などにあります。
クィアは今、再び、死に取り囲まれる時代になってしまったのだな、と最近思ずっと思っている。
エイズ危機で周りのクィアが死んでいくことの耐え難さ、嘆きの感覚を、クィアの歴史的な事実として大事なものだと認識しつつも、そうした周りがどんどん死んでいくことを実感として受け取ることが難しいとずっと思っていた。
けど、ふとそうした文献を読みながら今まさにトランスジェンダーの人々が追い込まれ死んでいく状態にあること、そして少しずつみんな居なくなっていくことの苦しさ堪え難さ嘆きがどうしようもない実感としてあることを思い起こされた。我々はトランスフォビア危機の中にある。
広まり続ける様々なトランスジェンダーへの排撃、同性愛者への非難、そして少しずつ消えていってしまう人々。多くの数少ないクィアたちが、悲鳴をあげつづけている。もう伝染病によっては死なないけど、権利の獲得と裏腹に広まり続ける差別が、その落差が激しいからこそ、人々を叩きつける。
同性カップルの住民票への記載、トランスジェンダーの性別変更の手続きの見直し。停滞した議会を乗り越えるために、色々な領域で民主主義と政治がすすんでいく。様々な人が少しずつ救われる。本当に良かった、と心を撫で下ろす。
その一方で、私は常に落下の衝撃に備えてしまう。獲得した権利を叩き落としてくる、その痛みと、その後の墜落に。激しいバックラッシュの声があちこちにある。声が聞こえなくても、予期してしまう。こんなにも、世界が未来が、あるように思えるのに、今目の前では差別の嵐しかない。未来はかき消される。そして死が姿を現す。
ストーンウォールイン反乱のことも思う。ジュディ・ガーランドの死と結びつけられることもあり、それは伝説だとされてきた。私もそう思っていた。差別が反乱を作り出したのであり、それは有名人の死ではない、と。
でもそれは違った。
確かに、クィアコミュニティと関わりのあった著名人の死は、コミュニティ全体を打ち砕くのだった。それは象徴の死に悲しむというだけでなく、差別の激しさと深刻さを改めて突きつけてくる。そこにも乖離がある。多くのそうした著名人を嘆く人は、差別に関心を払わないからだ。いや、もっといえば、死をどう取り扱っていいかもわからなくなる。死がただの死であってほしいのに、死は明らかにただの死ではない。それが実感として理解できてしまう。だから、痛む。
未来はどこにあるだろうか? 今、獲得されたかに見える権利は、未来にもあると言えるのだろうか? 議員たちは伝統とか女性を守るという言葉を盾にして、あらゆる人々を巻き込みながら、自分たちの利益と価値観を存続させようとしている。
今、目の前にある権利。そこにどうやってたどり着けるのだろうか。どうやって、それを未来に繋げることができるのだろうか。私は一体なにをしているのだろうか。もっと戦わなければいけないのは明白なのに?
そこでまた死がゆっくりと確実に姿を現す。
でも私は、死がなくとも救われる、権利のある世界であってほしいと希うしかない。そんなことを言いながら私も少しだけ戦い続けている。でも、戦うだなんて、死と瞬間と不確定な未来に満ちた言葉をいつまで使えばいいんだろうか。
簡単な話を最後にしてみよう。たとえば私は車椅子で生きている。車椅子は目に常に見える。そして都市と社会は――その左派的な空間でさえ、いやだからこそ――車椅子に排除的だ。それゆえに車椅子で出かけることはそれ自体がデモのように思える(実際私の車椅子には色々なステッカーが貼ってある)。でも日常の全てがデモにならざるをえない日常は、日常だろうか?
クィアにも近いことがある。日常で、排除され、常に性別を、多くの場合外性器に基づいた性別で区別され、また異性愛であることを、性愛を持つことを、二分法の直線の中にあることを、想定され排除され続け。その限定が重要な意味を持つことも時にあるのかもしれない。ただ、そのような場は必要な限り少なくするべきだろう。
ああ、でも私はこういうトランスジェンダー差別に行きそうな人を繋ぎ止める言葉を発したいのではない。いや、それは本当に心の奥底から重要なのだけど。そうした言葉は本当にありがたいのだけど。私もこれからもずっとそうした言葉を折を見て書き、差別を消していきたいけど。けど。ただその中で、そうした人々に蝟集され、日常さえ語れなくなるクィアの人々の経験を語りたいのという思いもある。そして今ほどそんな言葉を語れなくなっている時代はないだろう、とも思う。常にいろんな人々と共に生きて死んできた、その経験を。
きっとこうした言葉はあなたには伝わり、あなたには伝わらない、と考えてしまう。このトラウマは、この恐怖は。今も明日もない。私はそれでも生きる。だって本当は知っている。私たちもあなたたちもずっとここにいると。
(こういう文章を書くと、自分でも気づいてなかった傷に気づいてしまう。それは、どうなんだろう。)