いつも、全てを投げ出したくなる。いつも、虚無に身を投げたくなる。いつも、世界のことなんて知らない! と叫びたくなる。体に染み付いた疲労のように、それは取れず、ずっとそこにある。
マルチバースを描く映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』には、保守的でも開明的でもない母親との関係に悩むレズビアン(バイセクシャルかもしれない)のジョイが登場し、彼女のパラレルワールドの存在である悪役ジョブ・トゥパキは、世界の全てを載せた虚無の「ベーグル」を作り上げた。
(画像は映画に出てくるベーグルを模した自作のCG。トッピングされてるのは2023年2月から3月くらいまでにあった政府関係者による同性愛者に対する差別発言)
虚無のベーグルは、一目見るだけで、その穴に人を引き摺り込む。ただ彼女だけはそのベーグルを見ることができて、それは彼女のその虚無が他人と分かち合えないものであることを意味する。
ベーグルは色々な比喩なのだろうけど、私の中にも確かにそんなベーグルがある、と思わせてくるのがこの映画のすごいところだ。
私は確かにそんなベーグルの存在を常に感知している気がする。日々受ける差別の圧力、自分の無力さ、それなのにあらゆる情報と物語を受け取っていて、それが戦う力になる一方で、全部が無意味に思える瞬間がある。
あの、人を虚無に引きずり込むような、アイデンティティの否定。自分が自分であることを許されない感覚。あるいは、自分というものが大きな社会の力によってなる感覚。
全てが等価で無意味で、ただ冷笑するか暴力に逃げたくなるような、あの感覚。この世界の救いも変化もないのだ、と思わされる、あの感覚。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』はその感覚に「ベーグル」と名付けた。
ここ数ヶ月で私の中のベーグルは膨らんだような気がする。理由は色々だ。政府関係者からの差別発言の数々、それによって再び持ち上がるLGBT理解増進法案(この話を何年か前にもたくさん議論してデモにも行ったような気がする)、同性婚の否定、そしてその運動を押し留めるために発せられるトランスジェンダーへの差別の数々、トランスへの差別はどんどん悪化し単にトランスであることが許せないという領域になりつつあって、そこではあらゆるトランスの人々が個々に違う形で差別を受けている。もっと個人的なこともある。修士を卒業して博士に入るけど、そこで何ができるか、不安でたまらない。いや、そもそも、自分にできることが分かりにくいし、それでなにかちょっとでも貢献できるのか、わからない。もっと言ってしまえば、自分が自分にとって必要である理由がわからなくて、自制を強めないと、壊れるか壊すかになりそうな気がしてしまう。そういうふうに私の中でベーグルを作る原因が色々ある。
このベーグルを作り上げたジョブ・トゥパキは、めちゃくちゃクィア・アイコンな衣装を着ていて、その感覚は批評家のスーザン・ソンダクのいうところの「キャンプ」でもある。キャンプは同性愛カルチャーの中で使われていた言葉で、過剰であったり、誇張された、人工的な感性を指す、かなり曖昧な言葉だ。
なぜ、トゥパキはこんなキャンプな身なりで、虚無の中で破滅的な動きをしてしまうのだろうか。私はそれが切実に知りたい。そうなりそうで怖いから。
ジョブ・トゥパキは躊躇いなく、人々を破滅させる巨悪であり、同時に母娘関係と差別に傷ついた、その全てを背負った人でもある。その母エヴリンは、レズビアンの娘を認められない一方で、中国系移民として税務署で差別的取り扱いを受けていると感じてもいる。税務署の職員のディアドラは、イタリア移民でアメリカの中で嫌われ者として働き、エヴリンとは別の世界では同性の恋人である。
映画ではこれらの様々な出来事が、マルチバースを通して交差していく。それは時に滑稽な見た目や出来事だけど、でも滑稽に思えるその出来事が、実は真剣なものではないか、という示唆もされる。
マルチバースの他の自分から、知識や経験をダウンロードできる、というのがこの世界のアイデアの一つで、この他の世界へジャンプする時に、滑稽な行動をとることが求められる。映画の序盤でエヴリンは、マルチバースのディアドラに意識を乗っ取られ、自分を殺しにきたディアドラと対峙する場面があるのだけど、ここでエヴリンは滑稽な行動として、ディアドラに愛してると告げることを求められる。
映画の終盤にはこれと対になる場面がある。ディアドラと恋人になる世界があることを知ったエヴリンは、心からの想いとしてディアドラの愛を告げる。
映画の中で最も美しいこの場面は、ヘテロセクシャルとしての規範を生きてきたエヴリンが自分の秘められたクィアネスを受け止める場面でもあり、映画が描く滑稽さが、実は真剣なものである可能性をも示唆する。これは、異性愛規範の中で、クィアなるものに出会うこと、それを受け入れることの困難さを描くものでもあって、この困難さは映画全体を通して語られる。なんといっても、ディアドラと恋人になる世界では、人類の指がソーセージの世界なのだ。そんな遠い世界に行かないと、異性愛規範の中でそれを疑わず生きてきた人は自分のクィアネスと出会えないのだろうか。
それはジョブ・トゥパキの絶望と対になるもので、そこでは過剰さに、意味が与えられ、なにかの統合が始まる契機になる。トゥパキは言う「意味のある時間なんてほとんどない」と。それは、無意味のされたコードや人生が氾濫することへの絶望だ。
トゥパキが受けてきた差別は映画でたくさん描かれる。トゥパキの警官に対する反抗を、鈴木みのりは「容姿や肌の色、国籍などを根拠に怪しまれ、警察から職務質問されたり捜査対象と見なされたりする問題を想起させる(こうしたレイシャル・プロファイリングは日本でも起きている)。さらに、その警察や警備員などのジェンダー、エスニシティ、肌の色などが多様なかたちで表象されていて、権力側は必ずしも画一的ではないし、「同じ属性」といっても同じではないと示唆されている」とする(https://www.cinra.net/article/202303-eeaao_gtmnmcl)。
そのように、場所と時間を取り上げられた生、寸断され、場所と時間によって違う振る舞いをせざるを得ない人生。それにも私はある程度覚えがある。
まず第一に、車椅子で生きるというのは(私は車椅子ユーザーだ)、場所をたくさん制限されるということだ。どこへ行くにも、誰かに何かを頼む必要があったりする。そして、多くの場所が立ち入れない。自尊心は消えていくし、機会は損失されていく。同時に、私自身が関わるイベントでも、他人に対して障害をかしてしまうことも多くて、なんなら、自分自身が会場に行けなかったりする。それは、そういうイベントはお金が払えず、古い場所を使うしかないからで、お金を持っていて障害が廃されているスペースではクィアな話題は出にくい構造が背景にあるからだ。
あるいは、私はCFS/MEという病気があって、一定の労作をすると一定のダメージを受ける。どんな楽しいことをしても、その後で確実にその分のダメージを受ける。そして、一週間は3日くらいで1日は数時間だったりする。それ以外の時間は大体無を見ている(ちなみにこれでも患者の中では中程度の方だと思う)。
人生に意味のある時間は見出せず、あってもほとんどなくって、それがとても辛い。その感覚は、トゥパキのそれとは違っても共有したくなる。
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は、映画である。映画は長くても3時間くらいで大体終わる(そのくらいで出来れば終わって欲しい)。それは、無数の意味のない時間から、意味のある時間だけを集結させて結晶にする行為だ。実際、映画ではカットされた部分も多いらしく、その中にはユダヤ人に関するものもあったのだという。
そんな映画の中で意味ある時間について語るのは、狡くもあり、救いでもある、と思う。この映画は結構ずるい。セクシュアリティの幅を広げる物語は、セクシュアリティの幅を狭めようとしてくる転向治療と紙一重でもあるけど、その領域には背を向けるし、ジョイの恋人についてはあまり語ってくれない。映画という結晶にとって意味のない時間は、映画から削り落とされている。あるいは、映画や物語という形式が、その時間を拾うことを許さなかった、ともいえる。
だからこそ、映画は意味のない人生になってしまった時間を掬い上げることに成功している。映画はカオスな世界に政治的な意味をいくつもつけていき、それが、世界を変える意味を持つことであるのを明かしていく。鑑賞者がそうやって映画を観ていくことによって、世界の意味がちょっとだけ増えれば、マイノリティの場所が少しだけ社会に増えるのかもしれない
もう一つ、私が気になるのは、ジョイとエヴリンの関係についてだ。物語の中盤、ジョブ・トゥパキはエヴリンに心中を持ちかける。あのドーナツの中に一緒に飛び込んで欲しい、と。
ジョブ・トゥパキはけれど、他の世界のエヴリンに過激な実験の実験体にされ、それによって虚無に落ちた、という過去を持つ。
二人の母娘関係は入り組んでいる。メインになる世界ではエヴリンは、ジョイの同性との恋愛を認められない。こうした関係には竹村和子による母娘相姦の禁止が精神分析の枠組みのなかで参照されてこなかった、という指摘を思い起こさせる。主著『愛について』の中で竹村は詳細に母娘関係を分析する。そこでは母娘の愛は抹消され、娘は自身の愛の否定のために自身を殺そうとし、母はセクシュアリティの禁止としての機能を持たされてしまう。
2人の母子関係はまさにこの構造を可視化するものだ。ここでは物語はエヴリンのクィアネスを探求することで、母娘間に新しい関係が生まれたかに見える瞬間を描き出す。エヴリンは言う。「あなたには私みたいになってほしくなかった。でもあなたは私にそっくりだ」(記憶で書いてるので正確ではない)。この時、「そっくり」にはエヴリンとジョイ=ジョブ・トゥパキが共有する女性を愛する女性というレズビアン連続体的なアイデンティティの「そっくり」も含まれているのだ、と私は解釈した。
ただ、物語のあと、意味のない時間の中に帰っていく中で2人の関係が決して完全なものになったのではないことが描かれる。エヴリンは相変わらず見当はずれな小言を言うし、ジョイはそれをダルそうに受け流す。変わったことといえば、エヴリンが小言を言う相手に、ジョイの恋人ベッキーも加わったことくらいだ。
ある意味ではそれは、家父長制なものでないかもしれないけど、家族に回帰する物語だ。
なぜ家族に帰る必要があるのだろうか。それは多分、観た人の中には結構な割合で思う感想な気がする。私もそうだった。私は家族とのことを、ここで書くつもりはない。それは他人のこと私が書く権利がないからでもあるけど、私と家族の微妙な距離も意味している。私は出来れば友達と家を出て一緒に暮らしたいけど、私自身の病気が、私をマイナスなものと思わせ(実際色々なケアが必要になる)、私は家に甘えている。だから私が好きなのはむしろ家族以外の親密圏や公共の補助を見つける物語だ。それに、家族の圏にとどまるのは保守的な物語にも思えるし、ある意味でこの物語はそういう他人を極度に刺激しないところがある。
ただこのことは、少しまた違った角度から考える必要もあるのだろう。近年のディズニー映画では移民の家族の話が度々描かれる。それは話題になった『RED』もそうだし、MCUのフェーズ4もそうだ。語られるのは、移民たちが保守的な家族の内部で孤立する一方で、外の社会の中で移民として孤立する中で家族を中心とした民族コミュニティを必要とする物語だ。
この二重化された孤立の中で、家族は単に切り離せるものではなくなる。こうした物語が、人種的マイノリティを俳優やスタッフに増やしていく労働改革の流れとともに作られているのは、アメリカの映画の中で重要なことだと思う。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』もこうした流れの中にある映画。
私は移民ではない。だからこの観点を度々忘れそうになって、家族と自分の切り離しを考えてしまう。でも、少し待てよと思う。二重化された孤立みたいなものは、自分にも経験があるといえばある。それは移民の経験と一緒にできるものではないけど、クィアとしてクィアコミュニティの一部に感じる距離感や、あるいはクィアなオタクとして、昔の作品だったり、百合なんかを楽しみつつ、でも楽しみきれないあの、感覚。百合によって女性と恋愛する女性としての孤立を癒しつつも、百合自体に色々な思うところがある。そこには私が見たくない二重の孤立と癒着がある。虚無に飲まれた時、私は百合と心中するのだろうか。
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』について幾つかの角度から簡単に考えてみたけど、どうにも、落ち着きはしない。なんだか、自分の中にある「ベーグル」の輪郭だけが際立っていって、それに落ちない方策はあまり見えない。
映画が示すのは想像力による愛とケアを特殊能力にするパワーの称揚だけど、虚無に落ちそうな時それらは遠く見える。私は実際は、そういう想像力による愛と相互にやり取りし合うケアによって生かされてるのに、そのスーパーパワーは、ほとんど意味のない時間の中ではうまく感じ取れない。
もちろんそれはそうだ。人生は大体意味のない時間で出来てきて、キラキラした時間はほとんどなく、人生の大部分はキャンプではない。人生の大部分の時間を生きる術はすぐには見つからない。
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の大きなポイントは主人公がジョイではない、ということだ。主人公は歳を重ね、請求書に囲まれ、空想に耽りがちで、離婚届を渡され、ロマンスの幻想を追いそうになる、エヴリンである。革命的な生き方をしてきたのに、今は保守的な生き方として娘からチクチクされ、娘を否定してしまうエヴリン。
私はなんだかんだジョイの話に引きずられるけど、エヴリンの切実さも見ていて悲しかった。エヴリンもベーグルを見るジョイの気持ちがわかる人なのだ。
私はエヴリンの規範と自分の特性の中で行き詰まっていく感覚もよくわかってしまって、だからディアドラとの関係を結び直すエヴリンの場面に何度か目が潤んだ。いつになっても、自分のクィアさと出会えるなら、それは本当に幸せなことだと思う。
クィアに出会うこと。規範の中で、それと違うものに出会う態勢を持つこと。その姿勢を政治と生活に結びつけていくことを、映画内外で実践したのが『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』なのだと思う。
なんと、こちらの記事が私のことをものすごく感動しました。特に、病気について、自分のできることについての分は、吠えのように感じました。本当に、本当に、こういう記事、この言葉の読むことを経験できるなんて…
虚無感は最近多い、自分の場所にも かこ(オーストラリア)。体がどんどん崩す、トランスへが増加している。
こういう記事を読んだら、何かを感じました。そしてその映画の見た時とその悲しみ・喜びも思い出しました。
感謝してます。ありがとうございます。
( 変な日本語なんて、すみません。自分が第二言語としての対応だから、読解力は作文力よりある😅)